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とうとうこの日がやってきた。3000勝という前人未到の大記録を楽しみにしていたファンの一人として、残念でならないのだが、今はすべてをのみこんで「ありがとう!岡部」この感謝の一言を贈りたい。 “馬優先主義”貫いた孤高の名手 決して剛腕ではなく、派手な追い込みなどもみせない。騎手・岡部の凄さは?こんなテーマがよく議論されたものだ。真骨頂は「オカベポーズ」だった。さっと好位につけ、4コーナーで悠々先頭に立つ。手綱は絞ったままで、ちらりと後ろを見やる。馬が強いから。確かにそうだが、岡部は馬の気持ちに乗れる数少ない騎手。それなくしてなし得ない究極のライディングスタイルでもあった。 シンボリルドルフで臨んだ84年のダービー。3コーナーで手応えが怪しく感じた岡部は珍しく焦ってゴーサインを送った。その時、「しっかりつかまっているだけでいい」とシンボリルドルフがささやきかけてきたという。それ以来、ルドルフの教えにこだわり続けた。相棒の馬には常に辛口だったが、心の中では競走馬たちを誰よりも尊敬していた。 「馬七、人三」といわれる。走るのは馬、無理に走らせようとするな、という教えだ。時にはこれが逆転する。騎手がうまく乗って勝つ。しかし、岡部は決して「馬三、人七」にしようとはしなかった。50歳を過ぎてからも騎手会長の重責を果たしながら毎朝の調教に休みなく乗り続けた。若い馬の欠点を根気よく矯正する。成果が上がれば「幼稚園児がちょっとだけ勉強したようだ」とうれしそうに語る。そして、レースではあくまでも馬優先の騎乗を目指した。 寡黙で、人とのつきあいは苦手としていた。孤高の名手は、常に馬との会話だけを楽しんでいた。現役最多勝利が、ルドルフとの7冠が凄いのではなく、競走馬に接するそんな姿勢が凄い。勝負の世界にあって、勝つだけでなく、その前の過程の大事さを求め続ける姿勢が後輩たちの最良の指針となってきた。 肉体的な限界、プライド…。引退の理由はそれだけでは不十分だ。このまま乗り続ければ馬たちに悪い影響を及ぼす、そう感じての決断ではないか。(レース部長・桜井 裕夫) (スポーツニッポン) [ 3月10日 6時2分 更新 ] ■岡部幸雄(おかべゆきお) 1948年10月31日、群馬県太田市の出身、血液型はA型。-美浦所属のフリー騎手。数々の名馬の手綱をとったことで知られる。 岡部は1967年に騎手免許を取得。同期に柴田政人(現調教師)、福永洋一(引退)、伊藤正徳(現調教師)などがおり「花の15期生」と呼ばれる。若いころから海外競馬に興味を持ち単身アメリカなどに出向き武者修行、そこで触れた欧米の競馬文化に多大な影響を受ける。 馬のことを第一に考えた「馬優先主義」をポリシーにしており早くからこれを実践していたが、当時の日本では岡部の主張は受け入れられることはほとんどなかった。非常識とされていたことを数々覆し今日の競馬社会に多大な影響を与えた。 2002年12月から体調不良のため休養に入ったが、膝の状態がかなり深刻であったため同年4月には膝を手術。長いリハビリを終え2004年1月25日に復帰。同日9R若竹賞でダンスインザムードに騎乗し見事1着となった。生涯現役を目指しており夢の通算3000勝も見えてきた。 しかし、2005年は2月20日の騎乗を最後に体調不良で休養しており、3月10日に記者会見し、現役引退を発表。 【受賞】 •騎手大賞(1987年、1991年) •優秀騎手賞(1969年、1970年 - 1972年、1975年 - 1981年、1983年、1985年 - 2002年) •フェアプレー賞(1985年、1986年、1990年、1994年、1996年、1998年、2000年、2002年) •東京競馬記者クラブ賞(1987年) 【代表騎乗馬】 •シンボリルドルフ •ビワハヤヒデ •タイキシャトル •バブルガムフェロー •シンコウラブリイ •シンボリクリスエス
by ashigenoanchan
| 2005-03-11 06:41
| これは気になる
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